●レスリー・チャン映画 知られざる52の秘密 暴露編 その2

4、《阿飛正傳(欲望の翼)》のもう一つの結末

《今すぐ抱きしめたい》と同じく、《欲望の翼》も2パターンの結末を撮影している。その一つはレスリーがフィリピンで橋から飛び降りて自殺し、ストーリーの第一集を終らせるというものだ。このシーンはまだ公開されていないが、非情にも十数年後に場所を移して演じられる事になった。

他の話をしよう。
ウォン・カーワイはレスリー、アンディ・ラウ(劉徳華)らを連れ、フィリピンで少なからぬシーンを撮影した。ヨディの生母の話、父親が殺された過程、メイドが何を目撃し、何を密告したか・・・全て撮影した。勢いストーリーの繋がりも、より明確になっただろうが、公開されたバージョンでは全てカットされている。

現在見られる 《欲望の翼》の結末について話そう。この作品に関する文章を数多く目にした人なら、この作品は本来、上下二作撮る予定だったことをご存知だろう。だから多くの人はトニー・レオン(梁朝偉)が最後に出てくるのは、続作を予告しているのだと考えている。しかし、あながちそうでもないのだ。

実はとても意外である。
当時、香港の映画の販売制度は、先に出演するスター俳優を決め、出資者はその俳優の組み合わせを見て投資を決めると言うもので、スター俳優が少なければ契約が取れない。また出資者の手前、何としても予定していたスター俳優のシーンを入れなくてはならない。当初ウォン・カーワイが予定していた俳優にトニー・レオンも入っていたが、編集時に入れるシーンがなくなってしまった。聡明なウォン・カーワイは、作品が終ったあとにトニー・レオンのシーンを予告編としてつけ、期待を煽った。ウォン・カーワイの師匠とも言えるこの作品の編集者、パトリック・タム(譚家明)は予告を入れて宣伝をする必要はなく、そのまま終った方が良いと考えた!

そこでパトリック・タムはウオン・カーワイにあるCDを持ってこさせた。CD中の “Jungle Drums” を試したところ、映像と音声が完璧にマッチした。パトリック・タムは喜んでウォン・カーワイに「どうだ?」と聞くと、ウォン・カーワイも興奮して「最高」と言った。史上前例のない位賞賛されている、名作中の名作のエンディングはこのように作られた。

トニー・レオンは 《ブエノスアイレス 摂氏零度》で、自分のこのシーンを高く評価している。自分の経験からしても、何度も見返す価値があると。パトリック・タム自身の言葉で言うと「このシーンはそれ以前の全てのもの、登場人物の行動を転覆させた。 一人の人物の登場のために-ある時、ある場所で、ある男が生活し、外出の仕度をしているという」。

5、《烈火青春》のエンディングは、何故あのように支離滅裂になったか?

《烈火青春》にはオープニングが二種類あり、一つは先にケン・トン(湯鎮業)の家庭環境を説明するもので、もう一つはケン・トンが直接家族と話をするものだ。どちらも味があって面白い。同様に印象深いのが、何だかしっくり来ない殺戮の結末だ。はっきり言って、さっぱり分からない。パトリック・タムがストーリーを完結させる事に長けていないとしても、こんなレベルで終らせる程ひどくはないだろう。もしこのエンディングがパトリック・タムの原案だと思うのなら、それは誤解である。もっとも彼にも責任の一端はあるのだが。

《烈火青春》の撮影時、パトリック・タムは準備から撮影の進行まで、非常に時間がかかっていた。何度も時間を延長し、更に致命的だったのは、映画を半分撮り終わったところで、既に予算を使い果たしていたことだ。更に彼の案では、このドラマは3時間では終らなかった。出資者はこの状況を見て、即刻停止を言い渡した。そして邱剛健、方令正ら5人の有名脚本家に助けを求め、早急に終らせるように言った。そしてこの脚本家たちが、突然日本の女スパイが香港に潜伏し、ビーチでケン・トンやレスリーを殺すという幕引きにしたのだ。更にこの部分を撮影したのはパトリック・タムではなく、《殺出西營盤(狼の流儀)》の監督のテリー・トン(唐基明)だ。彼は後に香港の“男娼”映画の大監督となった。

前半に不釣合いな結末、これが元凶である。
パトリック・タムの回想によると、《烈火青春》ではレスリーとイップ・トンのシーンをかなり撮ったが使わなかった。今見ても、かなり大胆な演出だった。不幸な事に“世紀影業有限公司 ”が閉業して、この作品のネガは混乱のうちに散逸してしまった。今になってディレクターズ・カット版を作りたくても出来ないとのことだ。

6、《楽園の瑕(東邪西毒)》にはなぜモノローグ(独白)を用いているか?

《楽園の瑕》のモノローグには名言の誉れ高いものがある。例えばレスリーのオープニングの「他人が自分をどう思おうとかまわない。ただ他人が自分より幸せなのは許せない」というセリフ。しかしこのシーンとセリフは、新編集版ではカットされている。

ウォン・カーワイの作品でモノローグが多用されるのは有名だ。彼のモノローグ好きは、香港では及ぶ人がなく、またモノローグの扱いもすでに神技の域だ。隠すべきは隠し、現すべきは現し、ちょうど良い所に落着ける。気をつけなければ、心の弦をかき乱され、夢中にさせられるのだ。

《楽園の瑕》のモノローグには、すでに模範解答級になったものがある。しかし日常的にこのような問答に出会っていれば、発狂するだろう。何を尋ねても、正面からは答えないのだから。

あなたが聞く : この豚肉は幾ら?

相手は落着いて言う : 豚肉と牛肉の違いを知っているか?豚肉は食べれば食べるほど太るが、牛肉は食べれば食べるほど、体が壮健になる。

あなたは不思議に思って尋ねる : 謎があっても、この豚肉には問題ないでしょう?

相手は言う : 豚肉を買う人は、必ずそうなんだ。一塊の肉を見ると、肉の背後にあるのは何か知りたくなる・・・

全くどうしようもない。

《楽園の瑕》は時代物で、武侠物でもあるが、モノローグを多用している点で、香港映画の基本原則に背いている。しかし 《楽園の瑕》のモノローグは、以前のウォン・カーワイ式映画のやり方の延長ではない。ウォン・カーワイは幼い頃からチャンバラの物語をラジオで聞いて育った。だから映画を“聞いても分かる”ようにしたかったのだ。これは一つの理由で、もう一つの理由はもっと現実的だ。

この作品ではレスリーを除き、他の人の登場シーンはそれほど多くない。更にほとんどが細切れのシーンだ。だから最も良い方法が、モノローグでシーンを繋げることだったのだ。災い転じて福となすと言えるだろう。撮影時にはモノローグの設定はなかったが、ウィリアム・チョン(張叔平)らが編集時に何度も問題にぶつかり、編集しながらモノローグを書くしかなかったのだ。時間が経つうちに、モノローグが経典と称されるとは思いも寄らなかっただろう。作品の英語名とちょうど反対に。

 
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