1998年紅色戀人Dr.Payne役Todd Babcockからの手紙 -part2-


僕達が初めて一緒に撮ったシーンはなかなか手ごわいものだった。
秋秋が最初に僕を彼女のアパートに連れて行き、 滅茶苦茶に撃たれたジンを発見するシーンだった。そのころは非常に寒かったが、レスリーが着ているのはYシャツだけ だったので、僕達は絶えず、レスリーに毛布を投げ掛けていた。

僕は部屋の中に入って、彼の脈を取り、医療器具をかばんから取り出して、彼のYシャツを引き裂き、彼の戦いの傷跡を 目にする。

レスリーチャンのYシャツを引き裂くのが僕の最初の仕事だなんて、なんてことだろう!

彼の胸のメイクアップは非常に精巧だった。そしてYシャツはたった一枚しか用意されていなかったので、彼は僕を見 て笑って言った、「うまくやって!」彼の励ましはもちろん、助けにはならなかった。僕が彼のシャツを掴むと彼はすぐ に言った、「待って!君はYシャツを引き裂いたことがあるかい?」もちろんだよ、レスリー、僕は普段ボタンとかそ んなもの面倒くさいもの。僕は家に帰ると、引き裂いて、翌日新しいのを買うんだよ。・・・

すると、レスリーは僕の手を取り、カメラの位置につけて、「力を加減しようなんて気を使わなくていいよ」と言っ た。これが映画での僕達の関係の第一歩だった。レスリーは文字通り、または比喩的に僕の手をとり、問題を解決して いったのだ。シャツはみごとに引き裂かれた。そしてそれは僕達の友情の言ってみれば洗礼式だった。

次第に僕は彼のアシスタントやマネージャーとも友達になっていった。レスリーを囲む人々はまるで彼の家族のようだった。レスリーとずっと長い間仕事をして来た人々だった。彼らはとても気さくで、しばらくすると僕の面倒まで見てくれるようになった。 このシーンは次の日やその月の残りのシーンに比べると簡単だった。このシーンに続いて何日間かかけて撮ったシーンは、ペイン医師のアパートにジンが訪ねて来て、彼の妻が自殺したことや彼が計画している取引について語る場面だった。この時にはレスリーはもっと暖かい服を身につけており、セットの準備が出来るまで彼とおしゃべりをした。彼にリアン・イー を紹介して、映画や中国やアメリカについて話した。レスリーはマクドナルドの食べ物に対する彼の密やかな愛情を打ち明けてくれた。はるか中国までやって来て、生活や歴史や中国料理について学ぼうとしているのに、セットで僕達がマクドナルドを食べていることがひどくおかしかった。もちろんマクドナルドが出るのはまれだったけど。

レスリーがマクドナルドを時々差し入れてくれた時以外は、いつも僕らはスタッフと一緒に食べていた。僕は上海の中華 料理の方が、ウェンディーズやマクドナルドより好きだったけど、この2つは昼間、空腹なのに、セットでの食事の時間 がまだの時にも簡単に食べられたので手ごろだった。その結果、「紅色恋人」の撮影中に僕の体重は、なんと10ポンド ほど増えてしまった。という訳で、レスリーは僕にコーヒーやハンバーガーを差し入れてくれたので、そのお返しに僕は 彼の禁煙についての固い誓いをなんとか破らせようとした。以前はかなりの本数を吸っていたそうだ。しかしコンサート ツアーを最近、再開したので(彼が俳優になる前は有名な歌手だったとは知らなかった)禁煙を始めたそうだ。僕が吸う 分には構わないと彼が言ってくれたので、僕はずっと吸い続けた。 中国へ行くまでは僕は毎日は吸ってはいなかった。でも、スタッフ全員や監督や通訳…僕の周りの人たちが一人残らず吸 っていたので、僕もそれに感化されてしまった。それに、このような大きなプロジェクトの中心にいるというプレッシャ ーがあり吸わずにはいられなかった。
脚本についての会議の際、ボブが「これだけタバコを吸ってちゃんと考えられ るのだろうか?」ともらしたら、監督は「タバコがなくて一体どうやって考えられるんだ!」と。あの当時の状況を考え ると監督の言葉は納得がいった。

ハンバーガーやたばこの後で、撮影にとりかかった。時間をさかのぼって2つのシーンを撮ることになっていた。最初は 、ジンの物語で、次いでフラッシュバック直後のシーンを撮影する予定だった。その日僕の調子はあまりよくなかった。シーンの撮影自体はうまく行ったが、僕自身は100%の出来とはいい難かった。今振り返ってみると、レスリーとの実質的な初めての共演シーンだったので少し緊張していたのだろう。結果としては、僕の調子がいま一つだったことはあまり関係がなかった。脚本に手直しがあり、そのシーンを結局3回撮り直したからだ。映画の撮影ではすべてを完璧にやろうと思わないこと、このことを教訓として学んだ。撮影してもそのシーンは映画には使用されないこともあるのだ。この撮影シーンからレスリーとうまく共演できるようになった。この長いシーンの撮影に使用された家は上海の旧租界地にあり、美しくて他のセットよりも暖かくて、家に着いた時からうきうきとした。

レスリーは毛皮の縁取りのついたフードつきの大きな冬用の上着を着ていて元気一杯だった。メイテインとレスリーと僕 はピアノの周りに座りそれで遊んでいた。レスリーがピアノで思い出したのか僕に彼のコンサートのVCDをプレゼントして くれた。その後、みんなで大きなテーブルを囲み、その日の撮影シーンについての打ち合わせをした。各々がどうやった らうまくいくのか色々なアイデイアを出し合った。シーンの撮影中もずっと話し合っていろいろな方法を試してみた。 レスリーが3ヶ国語を話せるという事がこういう時、本当に助けになった。広東語、北京語と英語を話せたのは彼一人だ けだったからだ。なので、彼は私、監督、脚本家との間の話をとても手際よく、円滑におしすすめてくれた。(もう一つ 彼に感謝しなければならない事がある。彼が自分専属のスチールカメラマンを香港から連れてきてくれたことだ。そのお 陰で、広報用の写真をリハーサルの時に撮ってくれたので、撮影でくたくたになった後に何時間も残って写真撮影に応じ なくて済んだ!)

 
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