張國榮、ドナルド、ミッキー…メリークリスマス!
張國榮は「大きな子供」のようで、童心を多分に持っている。ドナルドダックとミッキーマウスが香港に密かに来ると知ると、
彼らと会って一緒に楽しいクリスマスを過ごしたいと言った。
「僕は小さいころから、ドナルドとミッキーという有名人が好きなんだ。子供のいい友達だけど、大人になってもお気に入りだよ。
香港に来るなら、ぜひとも会いたいと思ってね。」張國榮は嬉しそうに言った。
ドナルドとミッキーを抱きしめる彼は天真爛漫であった。忙しさを忘れて、翼を生やして気兼ねなく遊んでいるような、
まるで本当に"ディズニーランド"の童話の世界"にいるようだった。
彼も言った。「僕は30才の大きな子供だけど、遊び出したら3歳の子と同じ様に腕白だね!」

張國榮はベッドに入って…どうして彼の恋は実らないのか?
それとも… 文…謝淑敏
張國榮は幸運だといわれているが、どうだろう?「好運だけれど、僕の努力と苦労も忘れて欲しくない。」と張國榮は言う。
彼はデビューしてすぐに人気が出たのではない。下積み時代を経験し、辛い経験を努力して乗り越えて現在の成功をつかんだのだ。
ジェームス・ウォンはこう言った。「1985年は張國榮の年だ。」しかし今年になって、また
「1986年も彼の物だ。」といった。私はあえて1987年も張國榮が捉えて放さないだろうと言いたい。
張國榮の歌唱力は更に広がりを見せ、歌声も安定感を増していると感じられないだろうか。彼は勝利に酔ってとどまる事がない。
まだ足りないと、最高の物を求め続けている。自分の能力を全て発揮しようとしている。
彼は芸能界では立ち止る事は後退だと知っているからだ。過去の経験から学んだ教訓である。
「デビュー当時は色々夢を見ていたよ。あの時もラッキーで歌でデビューできたんだ。77年に麗的電視台主催の"アジア歌謡コンテスト"
にでて"American Pie"で準優勝できた。翌年に初めてレコードを出して"I Like Dreamin'"だけど、聴いてくれた人は少ないと思うよ!
その後の「情人箭」もぱっとしなかった。反対に映画は結構良くて、78年から81年の間に8本以上に出たよ。"紅樓春上春""喝采"
"失業生""檸檬コーラ""衝撃廿一""第一次""烈火青春""鼓手"等など。この時期は麗的電視に所属して、"愛情故事""鰐魚涙""浮生六劫"
"珠海梟雄""大内羣英続集""對對糊""遊侠張三豊""甜甜廿四味"そして"凸凹神探"等、テレビドラマに出たよ。印象のある人も多いと思う!」
張國榮は一気に自分の足跡を語った。
こういった作品は昔のものだが、彼にとっては最近の作品と同じ様に印象深い。かつての一歩一歩が現在の成功の源であり、
張國榮は一生忘れないという。
「あの時は演技を勉強し、演じることを始めた時期だった。また色んな人に出逢いだした時期でもあった。現実でも架空でも。親切な人や、
励ましてくれる人がいつもいてくれたよ。麗的電視は良くしてくれたと思う。契約時の月給は1000ドルだったけど、9ヶ月後には3000ドルに
なり、2年後には6000ドルにしてくれた。当時の6000ドルは大金だよ。」張國榮はデビュー後の滑り出しは悪くなかったと言った。
主役級の出演も多かったし、人気が出る出ないはあっても、ともかく名前のある役をもらえた。
1982年、張國榮に新たな転機が訪れた。キャピタル(華星)に加盟し、歌に専念したのだ。そして83年にキャピタルで初めての
《風継続吹》を出した。そして《一片痴》が吹き続け、張國榮の名前が知られるようになった。アイドルとなり、彼の才能も開花し始めた。
スローテンポの2曲で成功を納めると、彼は自信を持って新たな挑戦をした。《MONICA》は爆発的にヒットしファンを酔わせた。
彼は売り上げにより、84年に初めてプラチナレコード(5万枚の売上に対して一白金)を貰った。
「あの時の興奮した気持ちは、言葉には表わせないよ。レコードの売り上げが四白金(4プラチナレコード=20万枚)を超えるなんて、
思ってもみなかった。でもこれで歌に自信がついたよ。その後の《為イ尓鍾情》《全頼有イ尓夏日精選》《STAND UP》それから最近出した
《有誰共鳴》でも、僕は一生懸命歌った。感情を歌に入れたい。熱烈に支持してくれるファンをがっかりさせたくないし。」
と彼は熱く語った。
歌でトップにある頃、彼は無線電視のテレビドラマに出演している。古装武侠ドラマ《武林世家》及び40年代の
《儂本多情》だ。この為に他の作品に出る時間がなくなり、考えたすえ、張國榮はテレビドラマへの出演を断り、歌と映画に専念する事
を決めた。
「元々歌と映画の方が好きなんだ。テレビドラマは軽くて、忙しいから。撮影時間も余裕がないし。朝第3話を撮って、昼には第8話、
夜には第12話という具合で、感情を高めようとしても一貫しなくてね。映画は違う。ストーリーは繋がっているし、価値観もあって、
演技への興味も満たされるんだ。もちろん僕の基本は歌。自分のやり方を、一番自然に発揮できる。」張國榮は分析していった。
仕事が男性の基礎なら、愛情は男性の支柱である。どちらも不可欠だが、張國榮は30年の人生で、どうして恋愛に関しては成果を上げて
いないのだろうか?
「愛情は大切にしているよ。出会いは全て覚えているし、忘れられない。でもその思い出を誰かと共有するの?夜ベッドに入ったときなんかに、
色々思い出すだけだよ。そんな思いをラブソングに取入れる事はあるけどね。良く聴いてみて。感動的な場面もいっぱいあるから。」
傷心した事もあっただろうが、今はもう立ち上り、かつての一つ一つは思い出したくない。また彼は正直に、恋愛したのは一度だけでは
ないと言った。
1985年、初めてのコンサートを成功させて以来、仕事で挑戦を続けようと思った。だから今回のコンサートにも真剣に努力し、
恋愛もひとまず休むそうだ。そしてまた鋭気を養い、生涯の伴侶を探すつもりだそうだ。

絶対自己−《有誰共鳴》から小美の見た張國榮を語る
小美
《有誰共鳴》作詞者
11月の深秋は冷たくなったり暖かくなったり、人の心の如く予想がつかない。朝早くに香港電視の電話を受けて、この記事を書
くことになった。
張國榮について書こうと思えば何千字でも書けるが、4文字でも言えてしまう。それは「絶対自我」ということである。
これは真実である。レスリーは100%自分という人であり、好き嫌いや白黒がはっきりしている。例えばデビュー当時はけなされる事が多く、
彼が舞台から投げた帽子を投げ返されることまであった。こういった寒風も熱風も彼は忘れず、それをバネにして上を目指した。
そしてこの失意の頃彼を助けてくれた友達には非常に感謝している。現在彼を取り囲む人は多いが、レスリーの中では助けてくれた人と
けなした人がきっちり分けられ、彼はそれに見合った態度で接している。
そして下積み時代を送ってきたレスリーは、ここ数年の成功の喜びにも奢ることがない。教訓を学んだ彼は、淡々と言った。
「辛い時期を過ぎて、今日の地位に来たけど、これからももっと努力しないと。もし前に進まなかったら、他の人にすぐ追い抜かされて
しまうから!」前進なければ後退。レスリーはこの真実をよく理解している。
レスリーは率直に話す人であり、その為に誤解されることも多かった。しかし真実に勝る物はない。例えば彼は人を気遣かう人である。
撮影時にはスタッフにもきちんとお礼を言う。人の苦労が分かり、一朝一夕で人気が出て威張り散らすような輩ではない。温室育ちの花は
すぐ枯れてしまうが、風雨に耐えた花であるから長く咲き続けるのだ。
男子、30にして立つ。30歳の誕生日を迎えたばかりのレスリーは、成熟の階段を上りつつある。彼は仕事がなければ、家で過ごすことが
多いと言う。家にいるのが一番落着き、わずらわされたくないというのは、彼は安心感を求めているのかもしれない。
またレスリーはいつも着飾っており、洋服にお金をかけているというのも間違いだ。彼は稼ぐことの難しさを知っており、
使うべき所にだけ使っている。彼は花がいつまでも咲き続けるものでない事を知っているのだ。現在稼げる時には稼いで、
軽佻浮薄な芸能界を離れた後は、落ち着いて暮らしたいという。彼と食事をする時にも、ご馳走にはこだわらない。
カレーライスであれ彼は実においしそうに食べる。それが全く自然なのだ。
レスリーは自分の将来についてしっかり計画を立てている。いつ引退すべきか、どのくらい稼いでおくべきか、将来の生活などなど、
全て考えている。なぜなら「自分が自分を大切にしなければ、誰が自分を護ってくれるの!」と思うからだ。ここ数年、彼は仕事を中心
にしているが、それは計画を実行するためで、守銭奴になって自分を見失うことはない。ドル箱スターである前に、彼は人なのである。
だから《有誰共鳴》を歌いながら、彼の目が潤んでいるのを見たとき、私は歌詞が彼の内心世界を揺さぶったのを知った。レスリーに
歌詞を書くのは、実はずっと前に約束したことで、今になってやっと実現した。この歌はレスリーの為に書いたが、私の気持ちも多分に盛り
込まれている。しかし「従前是天真不冷静、愛自由或會忘形」(昔は天真爛漫で気の向くまま 自由を愛していたのか 夢中だったのか)
は彼の為に書いた。その人に合う曲でなければ、誰が同感するだろうか?聴いてくれるだろうか?
「有誰共鳴」の歌詞にはレスリーも共感してくれた。特に「笑問誰、肝胆照應?」(笑みを浮かべて独りごちる 心を割って語れる友
はいるかと)の部分には。この歌詞の全ては私の内心の鬱屈で、レスリーの口を借りて歌になっている。芸能界にいる心ある人ならば、
感性の豊かな人ならば、この意味が分かってくれるだろう。
そうでない人が分からなくても、私は気にしない。
気がかりな事も多く、妥協が必要なことも多い。実際非常に疲れる。歌詞にある「夜闌静、問有誰共鳴?」(更け行く夜の静寂のなか独り
問う、真情を語れる友はいるのかと)この問いには答えなどない。
レスリーはこの曲を録音しながら、泣き出しそうに見えた。歌いながら、心の琴線をふるわせたのかも知れない。彼は温室育ちではない
ということだ。心の中の涙には気付き難いものだ。
三寒四温の深秋の朝、張國榮について書き記す。
1986年12月発行の雑誌"香港電視"より