張國榮 : 因為懷舊,活得豪華 林奕華(香港) 第二のレスリーはどこにいるか?この問いには答えが出せないだろう。なぜならレスリーの様な花を咲かせようと思えば、前の世紀80年代の陽光と水分が必要だということが忘れられているからである。あの時代の環境と気候が無ければ、香港にはレスリーは出現しなかっただろう。だからそれぞれの人が哥哥を偲ぶとき、それぞれの80年代の記憶も、大きなジクソーパズルの様にばらばらになって、それぞれの人の脳裏に散っているのである。 《覇王別姫》 《欲望の翼》 そして 《ブエノスアイレス》 というレスリーの経典の3作は、90年代に世に出た。王家衛(ウォン・カーワイ)と陳凱歌(チェン・カイコー)の個人的な感慨は、一言に集約できる。「世界は過ぎ去ってこそ美しい」と。また香港映画は今日に至り、その存続が難しいとまで言えるだろう。それも映画というのは、昨日つまりは過ぎ去った事を消費し、取り扱うものだからである。最近では周星馳(チャウ・シンチー)の《長江七号》が良い例だ。冷静にストーリー、笑いのポイント、喜怒哀楽を鑑賞すると、以前に見たものと良く似たものばかりである。チャウ・シンチー自身が自らの昔を懐かしんでいるのだ。陳可辛(ピーター・チャン)の《投名状》が人気だが、そのアイデアも張徹(チャン・ツェー)の《刺馬》から来ている。また馮徳倫が《英雄本色》をどう撮るか期待されているが、「ノー」だ。レスリー、周潤發(チョウ・ユンファ)、狄龍(ティ・ロン)バージョンの焼き直しではなく、更にもっと以前の龍剛(ロン・コン)、蕭芳芳(ジョセフィーヌ・シャオ)、謝賢(パトリック・ツェー)のバージョンでもない。 香港が80年代以降、既に大スターを生み出していないという事実を受け入れるならば、レスリーの不在は、より明確にスターが備えるべき重要な条件を教えてくれるだろう。スーパースターというのは私たちに将来を夢見させ、古き良き時代を回顧させるものであり、現在には目を向けさせない。あまりにも現実的なことには夢が持てず、従って惹かれる人もいないのだ。誰も自分の現実の姿を見つめたいとは思わない。 現在多くの人がレスリーの早世を悼んでいる。彼らがレスリーと同じ世代では全くなかったとしても、あるいは彼らはテレビや劇場で、年を取らないレスリーの成長を何度も見てきたとしても、本来の“懐旧の念”は別の“想像”になってしまっている。例えればジェームス・ディーン、彼が生きた時代を生きなくても、その憂鬱、孤独、反逆を共有する事で、彼の経験した事全てを経験したように感じる。過ぎ去った時代は多くの人に、一種の心理的保証を与える。(消費上の保証も全てしかり)例えば高い買い物をするときにブランドが与える安心感のような。他人の足跡に沿って自らの喜怒哀楽を表現する事は、やはり方向の定まらないまま歩き出すより安心なのだ。 レスリーが私たちに与える“安心感”も、不安を忘れると言うエネルギーを利用したものである。つまり主にハリウッドの最も古い発明品-華やかな魅力を使っている。今日、全ての芸能人が流行に“身代金を取られ”、“羽交い締めにされ”ているが、この現象は前世紀の80年代から始まった。そして当時の芸能人やスターが今日より味わいがあり、懐かしく思われるのは、彼等には“精神的指導者”(例えば、ハリウッドの大物スター)はいてもイメージデザイナー、お守役やマネージャーはいなかったからだ。 現在の芸能人は、イメージ無しには成り立たない。イメージが無ければ、着る服も無い。そしてイメージは攻撃されれば容易に崩壊するからこそ、お金にもなるのだ。イメージが富で、富が名誉と同等だとすれば、芸能人やスターは、自然と自分を守る様になる。自分を守るのと同時に、他人の心も守ってやるようになる。か弱い心を刺激した事で、恨みをかってはいけないのだ。 だから華麗で勇敢に生きている様に見えるレスリーが、もし今日もいたら、彼の “人生を超越した価値観”が、きっとマスコミの標的となったことだろう。彼は張愛玲の後、どのメーカーの陳皮梅を食べたかまで、パパラッチがゴミ箱の中から答えを探し出そうとした“スター” である事を忘れてはいけない。しかしレスリーはそんな時代に適応する為に、自分を変えられただろうか?私は懐疑的である。 また、もし前世紀80年代の香港に、既にゴシップ好きのメディアが存在していれば、(例えば《壹周刊》は90年に創刊)レスリーの神話には “黄金の十年”は存在しなかっただろう。唐氏との愛情史も“暴かれ”“すっぱ抜かれた”だろう。そして彼が自分のコンサートで最も自分らしいやり方で、世界に“私の恋人はあなただ”と宣言する事はなかっただろう。現在レスリーを回顧する時、私たちはより良い未来を願うという気持ちを無くしている。そして現実に直面しながら、過去に抱いていた希望を思い返している。それは現実によって破壊されたのだが。前世紀80年代の香港芸能界の“好調は長く続かなかった事”と、“レスリー様な人はもう出現しない事”は、相互に因果関係がある。レスリーの “人生を超越した価値観”が、ゴシップ・メディアの圧迫に対抗しえるほど強大でない限りは。 この時代、どれほどのスターが名声を危険に晒してまで、何かを成そうとするかは疑問であり、そして彼らは無難に人気を維持している。勇敢や勇気といった言葉が、徐々に消費社会の中でマイナスと考えられてきており、スターの役割は人が出来ない事をやったり、人が言わない事を話したりすることではなくなっている。そんな事をしても、みっともないと思われるだけだ。その点で、レスリーは張愛玲的なところがある。彼ら二人は、往時を偲び、華麗に勇敢に生きたからだ。 |