我与張國榮的同窓縁分 時間が経つのは本当に速く、張國榮氏の5周年の追悼が行われている。彼と幾度か袖をすり合わせた縁があるため、良く原稿を依頼される。また二人の写真(原文:合照)はあるかと聞かれる。これを聞くと私の天邪鬼な性格から「合成写真ならあるけれど、使えないでしょう?」と言ってしまう。 哥哥が聞いたなら笑って欲しい。どの時代よりも現在では、“合成写真”は容易に出来るでしょう?また実際に撮っていても、見たいような、見るのが怖いような…である。これだけ大切に思っているのだから、きっと愛憎も感じるだろう。そしてカメラで撮らず頭の中のフィルムを現像する方が、実際の写真よりもその場面を留めておけ、生涯忘れないと思う。 同窓時代の縁 初めてレスリーに会ったのは、彼が“皇鳳翎仏教中学”の制服を着ている頃だった。当時彼は中学三年生で、私は後輩だった。“Leslie時代”の来臨にはまだ時間があったけれど、彼は既に校内で最も輝ける人物だった。彼ほど綺麗で、おしゃれで、率直な者はおらず、数年後には大スターと言われることになる“張國榮”と全く同じだった。彼は15歳くらいだっただろうが、自分のスタイルを持っていた。通学時には、よくガールフレンドの肩に手を回して、彼女たちと親しげに話していた。彼がバスケを始めると、皆が廊下にいって、柵にもたれて彼を見つめ、幻想を巡らせた。当然、その中に私もいた。 この同窓時代に彼と話した事があるはずだが、私は全く思い出せない。ある時レスリーが黄韵詩のインタビューで言った。「林奕華の事は覚えているよ。彼は近づいてきて、こんなことを言った奴だ。もしこの世界に本当にロミオがいるのなら、君の様な人だと思う、って」実際私の当時の“積極的な”性格からすると、これより恐ろしい事も言ったかもしれない。私は忘れてしまったが、ハハハ~ 私が先輩をロミオと喩えたかは、もう確かめられないが、しかしはっきり覚えていることがある。彼に“私”の存在を知らせるため、彼と彼が肩に手を回したガールフレンドの後をつけ、“適麗”というレストランに入った。学生用ランチセットを食べて、彼等が食べ終わった時、大胆にも彼の前に行って「あなたたちの分も、もう払っておいたから」と言ったのだ。 その後私は台湾で学んだ。程なく香港に戻り、テレビ局で脚本を書いてアルバイトをする生活が始まった。編劇の他、杜琪峰らとテレビドラマ《少年十五二十時》を演出したりし、当時はもてはやされた。そしてその為に、連絡が途絶えていたレスリーから、思いがけず連絡があった。彼は人を介して連絡先をよこした。芸能界に入るつもりかと思ったが、何の手助けも出来ないので、結局電話しないままだった。その後しばらくして、私たちはついにRTVの7号録音室で再会した。彼が“アジア・アマチュア歌唱コンテスト”に来たのだった。私たちは会釈をしてちょっと挨拶しただけだったが、私ははっきりと覚えている。 その後、彼はコンテストで香港地区準優勝を勝ち取り、芸能界入りした。 実現しなかった合作 私はそこで自分とレスリーの縁が終ったと思っていた。しかしある時友達と“為イ尓鍾情”でお茶を飲んでいると、彼は遠くから私を見つけてやってきて、その微笑みを十分見せてくれ挨拶した。勘定しようとすると、ボーイが「あなた方の分は、張さんが払われました」といった。どこかで聞いたセリフだ。翌日自分の著作を彼に送ってお礼した。レスリーはこんな人だ。家族の中で最も年下の“十仔”だったのに、なぜか“大哥哥(兄貴分)”の役をやりたがり、しっかり面倒を見てくれるのだ。 また私が鄭裕玲(ドゥドゥ・チェン)とお茶を飲んでいると、レスリーが突然電話をしてきて彼女に聞いた。「一緒に《覇王別姫》を見に行かないか?」ドゥドゥは笑うに笑えず「あなたは、何回も見てるでしょう?まだ見るの?」と聞くと、「でも君と一緒に見たことはないよ!」と絶品の答えだった。《覇王別姫》にあれほど心血を注いだのだから、他の人に認めてもらい、思い切り褒めて欲しかったのかもしれない。 また私は台湾の“金馬奨”のノミネート審査に関った。あの年ちょうど《ブエノスアイレス》が出品されていた。審査員たちの天秤はトニーレオンに傾きつつあった。「同性愛者でないのに、芸術のために犠牲を払い、その演技が精緻で真に迫っている」と。この言葉を聞いて、私は嫌な気分になった。そこで「もし異性愛者が同性愛者を演じて評価されるなら、同性愛者が常にスクリーンでは異性愛の恋人を演じているのは、更に賞賛されるべきでは?」と言った。この言葉の効果があったのか、レスリーは“最優秀男優賞”にノミネートされた。 「レスリーに、舞台劇に出てもらってはどうか?」一度こう考えた事があり、わざわざドイツのベルリンにいるレスリーに相談に行った。あれは1998年で、レスリーはベルリン映画祭の審査員を務めていた。私が着いた晩、彼はご馳走してくれた。その時に「舞台劇に出演して欲しい。ストーリーは只一つ。先輩が新人に “煙草を一口ふかす”演技を教える」彼は聞いて、興味があると言った。また馮徳倫を新人役に推した。数日後ベルリンには古い友人が集まった。フランスからマギー・チャン、香港からスタンリー・クワン、チンミー・ヤウ夫妻、そして脚本家の魏紹恩・・・一堂に会した感じだった。映画祭の授賞式が終わるとレスリーは上機嫌で、車を二台呼んで東ドイツ地区にお茶を飲みに連れて行ってくれた。シンプルなカフェには、木のテーブルと椅子が数セット。床は古び、しかし天井は高かった。哥哥は腰を下ろしてから、そっと私に言った。「ここは僕の理想のカフェなんだ。」何と彼が好きなのは、“為イ尓鍾情”のような華麗な場所ではなくて、このような素朴で自然な場所だったのだ・・・香港に帰る前、哥哥は言った。「張國榮、林奕華この二人の名前が並ぶと、皆大いに期待するだろうね。色んなことをよく相談しないと」。 残念なのは、帰港後それぞれの仕事がとても忙しく、哥哥が足を怪我した事もあり、車椅子に坐って電話での相談しか出来なかったことだ。私は新しい作品を制作するたび、彼を招待して見てもらった。しかし次第に疎遠になり、私はニュースで様々な事から哥哥が苦しみ、落ち込み、辛い状況だと知った。またレスリーはマギー・チャンに手紙で「僕は老いた。もう君と共演できなくなった」と書いていたそうだ・・・2003年4月1日の夜、私はCDショップのテレビで、信じられない訃報を聞いた。そして私たちの合作も、スタートにも立てず、煙となって消え去った・・・。 生まれながらの賈寶玉 レスリーの人生は、伝説だと思ってきた。彼については後3~50年経たなければ理解できないと考えている。彼が去ってまもなく、ドキュメンタリーの撮影を提案した。彼と仕事をした事のある人、ずっと仲の良かった女優たちに、彼女等の心のレスリーを語ってもらうのだ。白雪仙からカレン・モク、シルビア・チャンからブリジット・リン、マギー・チャンから李碧華まで。また最近なくなったリディア・サム(肥姐)にも・・・レスリーはこういった美しい女性たちに、あたかも自分の影を見るようだったからだ。 哥哥が去って、五年が経った。エディソン・チャンの写真流出事件が、今年初め全香港を騒がせ、私は哥哥のあるエピソードを思い出した。――彼が銀幕にデビューした作品は《紅樓春上春》ではなかったか?哥哥を天性の賈寶玉だという人は多い。しかし私は彼なら《紅樓夢》の多くの人物に化身できると思う。特に香港の芸能界が日を追って、榮國府に似てきている現在では。特に「聡明累」(註1)と「好了歌注」(註2)の榮國府では! 彼が去る前の正月に、Twinsと正月を祝う歌を収録した事を、どの位の人が覚えているだろう?もしあの時元気に飛び跳ねていた少女の一人が、将来イブのようにエデンの園から追い出されると知ったら、彼は義憤を感じ、彼女の肩を持つだろうか?それとも彼女のため哀悼の歌を書くだろうか? 哥哥の逝去から5年。香港(人)は更に賈寶玉独りが持っていた「淫:女性への慈しみ」を失っていると感じる。ただ他の院の兄弟たちのような、粗野さと荒淫だけが残っている。つまり女性に対する興味が彼女たちの身体と容貌についてばかりで、心の交流や精神的理解は必要としていない。これは賈寶玉が姉妹たちを尊重し、接していた方法とは全く異なる。寶玉が女性にもてる原因の一つは、“女性的である”事や “女性に礼儀正しい”ためではなく、彼が生来、女性に対して愛を感じ、心から尊敬する事を知っているからだ。そしてまさにそれゆえ、レスリーは史上最も寶玉にふさわしい俳優だ。 註1 「聰明累」《紅樓夢》第5回で王熙鳳を歌った詩。策士策におぼれるの意 |