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色 戒

新京報 2006-6-20 色戒の記事よりレスリー部分を抜粋して翻訳しました。 中文


色戒  林奕華

李安監督(アン・リー)が《色戒》を撮影予定」このニュースを新聞で読んだ時、 「おっ」と思った。“心躍る”という表現があてはまるだろう。なぜか?舞台監督として 私自身この小説のテーマを温めていた他、どうしてアン・リーがこの作品を選んだかに興味が あったからだ。

これは噂だが、アン・リーより先に台湾の楊徳昌(エドワード・ヤン)監督が《色戒》の撮影を 考えていたそうだ。2002年の秋、私が舞台劇《張愛玲、請留言》を上演していたおり、楊夫妻は見 に来てくださった。劇のためにわざわざ香港に来られたのではなく、新作の資金準備のためとの ことだった。そしてその新作こそ《色戒》だともっぱらの噂だった。そして楊監督の《色戒》は、 張愛玲のラブストーリーというだけでなく、小説の時代背景も描き、当時の傀儡国民政府の重要人物、 汪兆銘も出てくる。そして汪兆銘役は張國榮になりそうとまで言われていた。2002年秋までに監督 は何度も張國榮と接触し、2人は資料集めや役の分析を始めていたという。

もし張國榮が汪兆銘を演じたら、歴史は書き換えられただろう。張國榮は中年になり、自分の 年齢と地位にふさわしく、しかも注目を集める役柄を探すのに以前より苦労していた。“汪兆銘” は疑いなく、二重の意味で挑戦であっただろう。汪は歴史上さまざまに取りざたされている人物で あるし、まだ撤去されていない地雷のような役を演じることは、俳優にとっても予測のつかない挑戦 である。正義の為の犠牲になるのか?それとも奇想天外なものか?

張國榮としても熟考の末に、この役を引き受けただろう。しかし資金繰りがうまくゆかず、この 作品は実現しなかった。張國榮の演技の新境地は見られなかった。そして更に惜しいことに、 その可能性も水泡と帰したのである。

汪兆銘 (おうちょうめい) 1885~1944
民国の政治家。広東番禺の人。字は精衛。日本に留学中、革命運動に加わり、 1911年摂政 醇親王載?(じゅんしんのうさいほう)の暗殺に失敗。辛亥革命により釈放された。 その後孫文の側近として、中国国民党結成に参画。左派を代表して度々反蒋(蒋介石)運動を行 なった。後に蒋介石と合作したが、日中戦争中、重慶を脱出して40年、南京に国民政府を経て、 親日反共を唱えて日本と同盟。日本で病死。(世界史辞典 数研出版より)