娯樂圈108個好人

Jealousy著

林憶蓮のアシスタントマネージャーだったJealousy(陳美燕)の著書、『娯樂圈108個好人』が出版されました。レスリーの部分を抜粋して翻訳しました。


『娯樂圈108個好人』
出版社: 書識會社
HK$45
著者:Jealousy

張國榮  一個好哥哥  特別な人

この本を書くと決めた時、張國榮は必ず入れようと思っていた。この、私の人生に数多くのシーンを残した人を。思い出は多く、行数は限られている。 とっておきのエピソードを選ばなくては。

レスリーについては、自分が贔屓にしているのが分かっている。ずっと彼は特に愛すべき人だ。なぜか?なぜならハンサムだから!仕方がないでしょ?私だって女なんだから!それに張國榮は容姿から心まで美しい。彼の真っ直ぐな人柄、思ったら言わずにおれない性格は、私自身の性格とも似ていて人にも評価されていると思う。ありがとう皆さん。

レスリーはとても気が合う相棒で、一緒に過ごした時間は多くないものの(実際にはかなり長かった)、いつも話しに話し続け、それでも話足りなかった。人の好き嫌いや物事の見方など、共通することが多かった…マンダリン・オリエンタルホテル(あの忘れ難いホテル)のClipper Lounge、The CafeそしてGrand Hyattがお気に入りの場所だった。いつも話し出すと3時間たっても止まらず、時には8時間過ごした事もあった。「おしゃべり大賞」でも貰えそうなくらい。彼はもういないけれど、彼とのあれこれを記し、いつまでも振り返れるようにしたい。

張國榮を知って長くなるが、私の中で彼の印象は大きく変った。始めはあまり好きではなかったが、だんだん評価するようになった。私達が知り合ったのは、野暮ったく言えば縁からだった…。

1977年張國榮と私は、隣人だった。同じ中環干コ道に住んでいたのだ。彼が41号、私は向かいの62号だった。マンションのプールでよく彼を見かけた。知り合いではなく、麗的電視の俳優であることだけは知っていた。正直に言うと、当時の彼を私は全くなんとも思わなかった。何か美しさがあると思ったけれど、後に忘れ難い親友になるとは思いもよらなかった!

レスリーと知り合ったのは、病院でだった。当時私の祖父が長く患い、養和病院の二人部屋におり、良く見舞いに行っていた。ある日そこで張國榮にばったり会った。なんと祖父と同室にいたのが、彼の父上だったのだ。私たちは「Hi」「Bye」などと挨拶するようになった。そして「ただきれいな」という印象は変った。彼はしょっちゅう見舞いに来て、朝から夜まで付き添い、本当に孝行息子だった。

八十年代、レスリーは楽壇で異彩を放つようになっていた。私は商業電台に入り、日々多くの芸能プロダクションや歌手や芸能人と仕事をしていた。そしてついに職場で彼と再会した。しかし私はファンの様に、彼をこっそり見ているばかりだった。彼が顔を覚えているか分からず、さらに今の張國榮は大スターである。誤解されれば、話はややこしくなる。ある日レスリーが商業電台に来て、新譜の宣伝をすることがあった。私たちは一言挨拶をし、自己紹介をした。その後レスリーはいつものように記者に取り囲まれた。翌日レスリーはまた商業電台でインタビューを受け、その時彼の方から私を呼んでくれた。なんとも言えず嬉しかった。このスターは何と親切なのだろう!そしてその時、この朋友と長く付き合っていきたいと思った。

後で思い出話をしていた時、彼はとっくに私をあのお隣さんと気付いていたと分かった。プールでのこと、病院での事も。そして私をからかって言った。「どうしていつも大きなラジオをもって、プールで日光浴していたんだい?ほんとに小娘だったね!」ハッハッハ・・・彼は私のことをしっかり見ていたのだ。でも私がその時「娘」でなかったら、あなたは注意しなかったでしょ?

一個好令人震驚、傷心的決定   世間を驚かせた、傷心の決定

1989年、張國榮が引退を宣言した!

当時人気絶頂にあり、音楽界に燦然と輝いていた巨星が、そのもっとも輝かしい時期に引退を選択した。このニュースを聞いたとき、まずは呆けてしまった。非常に残念だったが、彼の勇気にも感服した。このように名声をこだわりなく毅然として捨てられる。はやはり唯一無二の存在である

この決定は親しい人たちをも震撼させるものだった。レスリーが「楽壇から引退する準備をしている」と言った事があったが、私は彼がただ言ってみただけだと思い、半信半疑だった。彼がその理由を教えてくれた時には、何も言えなかった。非常に複雑な気持ちで、それ以上何も聞けなかった

数週間後、黎小田が尖沙咀のリージェントホテルで、Hat's Partyを開いた。レスリーは会場に来ると、商業電台もゲストの一員と知り、私のテーブルにやってきた。そして私を端に引っ張ってゆき、私の手を握って小さな声で言った…「僕は今晩、引退を発表するんだ。」と。彼は何気ない風を装っていたけれど、緊張した表情を隠し切れなかった。しかし彼の側で私は唖然としてしまい、自分が聞き違えたのでは?レスリーがもう歌わないで、舞台にも立たないなんて想像だにできないと思っていた。心の中では大声で「What happened?」と叫んでいた。でもレスリー、あなたはただ微笑んでいましたね? レスリーが舞台で歌い終え、記者の前で引退を告げた時、私の心はたちまち冷めた。そんなことあるはずがないと、心の中で言いつづけた。「どうして?」なんと彼がずっと言っていた事は事実だったのだ。私が信じない愚か者だったのだ。会見を終えてレスリーは舞台をおりてきた。私に触れたが、彼の手が震えているのが分かった。彼にとって非常に重大な決定だったのだろう。彼がこの秘密を1ヶ月も先に打ち明けてくれていたとは、思いも寄らなかった。

レスリーが《覇王別姫》の出演を決めた時、彼は興奮状態だった。翌日私を探し出して、手を取ってこの喜ばしいニュースを教えてくれた。私も嬉しかったし、さらに感激だったのが、私をここまで信頼してくれたことだ。だから彼の引退を聞いて、さまざまな思いが渦巻いた。しかし親友として、彼の決定を尊重するしかなかった。

一個好難得的哥哥  得難い存在

かつて友人が、テレビ局で仕事ができて羨ましいと言ったことがある。毎日多くの芸能人に会えて、そして友達になれてと。友人は私の苦労を知らない訳だが、しかし私はこの仕事に満足しているし、この「美味しい仕事」を失いたくないと思っている。しかしレスリーの家に行ってからは、上には上があると知った。レスリー宅で働くのが、世界で一番美味しい仕事だろう。待遇が非常に良く、まさに「あなたの為に働くのは、自分で社長になるより良い!」なのだ!

レスリーの香港やバンクーバーの家に行ってみると、全て有名デザイナー設計の様だ。広々した空間で、釘の一本に至るまで主のセンスが現れている。  私が最も驚いたのは、メイドの部屋だった。家具の配置も快適で、色も美しく、良く考えられているのが分かり、他家のメイド部屋とは較ぶべくもない。そしてその部屋の電化製品のほとんどはB&O[註1.]なのだ!私の家でもB&Oの電話が一台あるだけなのに!羨ましがらずにいられようか。これを見て私は転職しようと思い、レスリーに「何かお手伝いできることはありませんか?雇ってください.メイドにしてください!」と言った。すると彼は「メイドも同じ屋根の下に住んでいるから、当然家族のようにしているんだ。」そして続けて「どの部屋でも、僕は自分でデザインしたいんだ。色とか家具の置き方とか。メイドの部屋だって。でも彼らがここで仕事をしている以上、ここが彼らの家だから、デザインするとしても相談した上でだよ。(相談までするの?感動で涙が出てくる)完成してから、『Do you like it?』って、気に入ってくれたか聞くんだ。」レスリー曰く、外国人メイドは高等教育を受けた大学生が多い。例えば彼が雇っているのはもと歯科医だったように。国の経済環境の為に仕事が無く、海を越えて香港に出稼ぎにきている。その苦労は外からは分からないが。だから彼はメイドたちに親切にし、家族と同様に考えているという。彼らにも出来るだけ快適な住環境を与え、楽しく仕事をしてもらえるように考えている。もし楽しく仕事が出来なければ、申し訳なく思うと言う。ここからもメイドたちへの尊重が分かる。

舞台では多くの人に愛され、愛想を振りまき、信用し難いかもしれない。しかし舞台を下りた彼はこのように、人にも全くスター風を吹かせることなく、家族、友達、運転手、メイドであれ同じように大切に思っている。そしてメイドの部屋といった細かいところまでに配慮するのだ。私はレスリーを怪物だと思った。一頭の美しい怪物。

一個好厚道的哥哥   優しすぎる人

私がバンクーバーに移住していた時、ある日香港のレスリーから電話があった。電話口の彼の声は厳しかった。他には何も言わずただ「OOさんを良く知っているだろう?あの人のことをどう思う?」と聞いた。この人はレスリーが良く知っている業界人で、私も知っていた。その人がどういう人物かも。言うにも値しない人で私はただ「Sorry…No comment!」といった。そしてはっと思い当たり、「いくらだまされたの?」と問うた。しかしレスリーはただどうしようもないと言う調子で、「お金が問題じゃなくて。僕がなくしたのは『友情』と『信頼』だ」と言った。そして情に厚い彼は、その人が何をしたかは、一言も言わなかった。他の所にも漏らさなかった。ただ淡々と「OK。分かった。あの人を見直す事にしよう。」といった。新たに見直す?そんな人とは早く絶交してしまえばいいのに、どうして見直す必要があるの?レスリー、優し過ぎるよ!

一個好愛護朋友的哥哥   友人思い

レスリーはいつも友達には誠実で、争うことはなかった。私は何度もその友情にすがったが、いつも「出来る事はする」という姿勢で、断られる事がなかった。1994年に私は個人的に、サンディ・ラムの仕事を受けており、《赤裸的秘密》の演出を考えていた。彼女と4時間長距離電話で話し、やっと劇場版をテレビで放映するよう説得できた。相手役の男性を考えた時、頭によく知っている名前が浮んだ。

張國榮!レスリーが最適な人選ではないか?しかし当時レスリーはもう引退していた。出演してくれるだろうか?ええい、運に任せよう!レスリーはずっとサンディ・ラムに目をかけてくれた。台北に来た時、わざわざサンディの部屋まで来て、仕事のことで悩んでいると知って、半日相談に乗ってくれた事もあった。そういう間柄だから受けてくれるかも…

バンクーバーのレスリーに電話し、事情を話した。まさか彼があっさりと快く「いいよ。君が言うなら」と言ってくれるとは!天にも登る気持ちだった。録音日を決め、彼はシンガポールに行く途中に、わざわざ香港で一泊してくれた。レスリーはCBSのレコーディング・スタジオと録音師亜七を指定した。全て準備し、後はレスリーの到着を待つだけだった。録音当日、彼は時間通りにきてくれた。シナリオについて意見があるか聞くと、大きな問題はないし、作者の思いを大切にしたいから、そのままで良いとのことだった。その日は彼の独白を録音するだけで、(サンディはアメリカで録音した)スムーズにできた。

サンディはこんなすばらしい贈り物を貰って、レスリーの大きな力添えに当然感謝すべきだ。しかしロサンゼルスにいたサンディが録音を終えた後、バンクーバーに飛び、レスリーに直接感謝の意を伝えに行ったとは知らなかった。そしてふと思いつき、二人でジョナサン・リーのバンクーバーのレコーディング・スタジオへ行き、もう一度録音し直したそうだ。これも後にサンディのCDに入れている。

レスリーは多くの人にその手を差し伸べてくれ、サンディはその中の1人に過ぎない。しかしこの録音は簡単に見えて、実際は困難も多かったと思う。すでに引退している彼が、音楽活動に似たことをするのだから矛盾してみえる。様々な圧力も有っただろうが、サンディのために他人の目を気にせず、思い切ってくれたのだ。 レスリーがいかに友達を愛し、助けてくれたか!お分かりいただけるだろう

[註1.]デンマークの有名な電化製品メーカーBang and Olufusen