映画百年記念。100大電影スター選出  2005年11月13日 東方早報

中国映画の100年を回顧するのに、100名の明星に思いを馳せるというのでは足りないかも知れない。 しかし俳優を通じて回顧するのは、もっとも具体的な方法である。その意味で昨日行なわれた "電影百年百位優秀演員評選"の結果発表は、今回の金鶏百花電影節と映画の歴史を結び付けたと言える。 もちろん、今回残念ながら選出から漏れた俳優もいるし、メディアが勝手に騒ぎ立てた場面もあった。 しかしこの獎の意義に対しては、参加した映画人も記者も心から祝福の拍手を送った。

章子怡ブーイングにあう

"優れた演技で忘れがたく、多くの観客に愛されている"及び"中国映画史上、何らかの影響を与えた"と いう基準に基づき、中国表演芸術学会は1905年から現在までを3つの時期に区分し、優れた俳優を100名選んだ。 選ばれた俳優は全て、この獎にふさわしいと同意いただけるだろう。また往年のスターも自ら出席し、記者は敬意を表した。   しかしもっとも熱く、温かい拍手を受けたのは、やはり昨日会場に現れた現役の俳優たち、そして阮玲玉、趙丹、張國榮、梅艶芳 など故人となったスターだった。現在第一線で活躍していても、出席しなかった俳優に対しては拍手も明らかに少なく、 章子怡がスクリーンに映されると、ブーイングまで起こった。「もっといい俳優が選ばれていないのに、 どうして彼女が100名に入るんだ?」という声も聞かれた。電影芸術家協会もこういった意見が出るのを予想し、 口をそろえて「人数も限られており、がっかりされた方もいるでしょう。実際、一票差で100名に選ばれなかった俳優もいます・・・ ご理解頂きたい。」といった。

百名の評論家が「百名のスター」を選出 香港文匯報
"中国電影百年百位優秀演員"発表

中国映画発展への貢献を表彰するため、中国映画生誕100周年記念に" 100名の優秀俳優"が選ばれた。 中国電影表演芸術学会は中国の100名の著明な映画監督、評論家、映画史学者、映画教育者、及びプロデューサーを 選考委員に指名した。そしてこの100年に映画出演した俳優の中から、100名の"花形"を選出した。 会では"中国電影百年百位優秀演員"を発表後、その出演作品を放映した。参加した往年のスターは自分のかつての姿に、 抱擁しあったり笑ったり。会場は暖かな雰囲気に包まれた。 選考委員代表の于洋氏は、記者会見で「今回の選考結果からは漏れてしまった俳優もおり、がっかりされる方もあるだろう。 人数が限られ、優秀でも選ばれなかった方がある。この100名は優れた俳優中の、優れた俳優といえるだろう。」と述べた。

選出された100名は以下の通り。(時期及び姓名の画数順)

    (1905--1949)--35人:
    上官雲珠、于洋、于藍、王人美、王丹鳳、馮哲、田方、白楊、石揮、劉瓊、孫道臨、阮玲玉、呉茵、呉楚帆、 張平、張瑞芳、李緯、陳強、周[王施]、金山、金?、胡蝶、趙丹、項J、秦怡、袁牧之、陶金、黄宗英、舒適、 舒繍文、謝添、藍馬、鮑方、黎莉莉、魏鶴齡。

    (1949--1976)--34人:
    于是之、王心剛、王玉梅、王曉棠、王馥?、盧燕、歸亞蕾、田華、仲星火、劉曉慶、成龍、張良、 張瑜、張艾嘉、李小龍、李仁堂、李默然、楊在葆、周潤發、?學勤、林青霞、郎雄、柯俊雄、祝希娟、趙子岳、趙麗蓉、 唐國強、夏夢、秦漢、郭振清、陶玉玲、崔嵬、謝芳、潘虹。
  • (1976-- 2004)--31人:
    王志文、王鐵成、寧靜、劉佩g、劉コ華、呂麗萍、 鞏俐、朱旭、宋春麗、張豐毅、張國榮、張曼玉、李連杰、李保田、李雪健、陳 、 陳佩斯、陳寶國、陳道明、周星馳、鄭振瑤、姜文、奚美娟、梁家輝、梁朝偉、梅艷芳、章子怡、斯琴高娃、葛優、??麗、濮存マ。
中文記事:東方早報/ 香港文匯報 /明報専訊/瀋陽今報 他にも同様記事あり。

2005/11/21up

2005年 張國榮-類稀なる美に- 重慶晨報電影百年特刊より

 張國榮は広東籍。1977年《紅楼春上春》で映画デビューした。その後《烈火青春》《男たちの挽歌》《ルージュ》 《チャイニーズ・ゴーストストーリー》《欲望の翼》《追憶の上海》《ブエノスアイレス》《色情男女》《夜半歌聲》 《楽園の瑕》《金枝玉葉》《覇王別姫》《狼たちの絆》などに出演した。蝶衣のような彼が去り、この世にはアイドルがいなくなった。


香港トムソン影業公司 徐傑

7日、記者は香港トムソン影業公司を通じて1993年カンヌ映画祭で"パルムードル賞"を受賞した《覇王別姫》の プロデューサー徐傑女史に連絡した。(徐傑:トムソン影業社長。台湾の女優、徐楓の妹)一世一代のスター張國榮に ついてのインタビューはこのように始まった。徐傑女史はゆっくりと話し、思い出に浸っているようであった。 彼女は張國榮がいかに偉大な俳優であったかを語った

「私と張國榮が出会ったのは、陳凱歌監督の《覇王別姫》の撮影でです。あの作品での張國榮の演技に並びえる人はいないでしょう。 あの複雑な人物を、細部まで真に迫って演じられる俳優は他にいません。」徐傑によると1993年5月17日、受賞を競った張國榮は、 カンヌでイベントに出席しインタビューに応じた後、香港にとんぼ帰りし《白髪魔女傳》を撮影した。しかし24日の授賞式には またカンヌに戻ってきた。この過密なスケジュールを彼は機敏にこなした。この様に仕事を大切にする人は初めてという。

また姉の徐楓はこういっている。「この世に張國榮ほど演技の出来る俳優は、何人もいない。」
姉がうつ病を患った事があるので、 徐傑女史も張國榮の病状を心配しており、何度か医者も紹介したそうだ。《覇王別姫》が大獎を受賞し、仕事が終って以降も、 この十年来張國榮と徐姉妹は連絡を取り合っていた。

「彼が自分の命を終らせようとしたなんて、どうしても信じたくありません。残念すぎます・・・」徐傑は悲報を聞いたとき、 姉が崩れ落ちてしまうのではないかと心配になったという。徐楓は張國榮を高く評価し、社会の荒波を潜り抜け、人生を理解した 俳優にしか出来ない演技だと言っており、あのニュースは姉には強すぎる打撃だった。


保利万和影業有限公司  何影彬

中国重慶において張國榮と近く接した数少ない業界人として、5日、保利万和影業有限公司の何影彬氏にインタビューした。

記者:
張國榮に親しくできた人は数少ないと思いますが、その時の事を教えて下さい。短い時間の間に、彼にどんな印象をもちましたか?

何影彬:
彼と会えたのは偶然でした。1998年7月、張國榮は《紅色恋人》の宣伝で、成都に来たので、私たちも重慶のメディアも会い に行きました。彼のサインが業務で必要でした。スタッフとサインを貰ってから、私たちは一緒に写真を撮りました。あの時その場には 3人しかいませんでした。張國榮、私とスタッフです。彼は楽しげにサインを終え、また快く写真に応じてくれました。ラッキーでした。 張國榮と私は同い年で、誕生日も同じく9月なのです。しかし外見は、少なくとも5歳は違って見えました。彼は非常に物静かで、 颯爽と歩き、はっきりとした考えをもっていて、口数も少なかったです。凡俗を超越した雰囲気があって、畏敬の念を抱きました。

記者:
凶報を聞いた時、どう感じられましたか?

何影彬:
知ったのはネット上でした。驚きましたが、信じませんでした。ちょうどエイプリルフールでしたし。 悪いいたずらだと思い、あの日はあまり気にしませんでした。翌日あらゆる新聞が凶報を伝えていて、真実だったと知ったのです。 しかしなぜ、映画でも、演唱會でも、記者会見でも非常に前向きで、光に満ちていた張國榮が、憂鬱のかけらも感じられなかった 彼が自殺したのか、どうしても分かりませんでした。後になって病魔に侵されていたことを知り、慙愧の念に耐えませんでした。 芸術創作に打ち込みすぎ、その苦しみが病気を引き起こしたのだと思いました。そして精神的に苦しい状況であっても、 世間に姿を見せ続けたという驚くべき自制心に感服しました。


重慶晨報 芸能記者 張立力

張國榮が飛翔した時、私の青春も灰塵に帰した。モンタージュが作り出す視覚マジックのように・・・24まで。 そして永遠の至宝が砕け散った。

私の眼は、涙もないのに霞み、血の色をしていただろう。
彼は人生最後の大芝居を演じきった。華やかで精巧で、いわくありげになまめかしい芝居。

あの道を逸れた瞬間。張國榮はあらゆる束縛から解き放たれ、魂は殻を突き破り、雷撃の速さで飛び去ったと 信じている・・・天国へ。もう近づいている。

その刹那、世界は声を失った。2003年4月1日18時以降、人々はまだ泣く事も出来なかった。永遠の別れを告げた虞美人に、阿飛に、傑仔に。 永遠の別れを告げた風再起時に、儂本多情に、共同渡過に。そして哥哥が創造した美の世界に。蝶衣の舞は、どれほど美しかった事か!

私にとってはレスリーは、甘酸っぱい青春のシンボルだ。夢想、無知、率直、追求、性の芽生え。70年代生まれの者にとって、レスリーと いうラベルを冠したものは、信仰の対象ですらある。悲しいかな、彼は燦然と輝きながら最後に世界にこう告げた―神などいない。 人がいるだけだ・・・

当時のことは良く覚えている。流行の服に身を包み、《側面》を口ずさみ、周囲の女の子に最も男らしいと思われたかった頃。 寝苦しい夏の夜。カセットから流れる《無心睡眠》を聞きながら、早熟なクラスメートの胸を思い浮かべたこと。黒い革靴を履いて 《男たちの挽歌》をまね、その義情や気概に憧れたり・・・あの当時、レスリーのしなやかな歌声が流れる中、男子生徒はチャチャチャを踊る 女生徒に恋をした。 青春の真只中だった私が《由零開始》捨ててしまったのを、父母はいまだに悔やんでいる。あの頃から私の反逆に満ちた青春時代は始まった。 この象徴的な"開始"はその後10年の私と父母の関係を物語るものでもある。今となってはどうでも良いことかもしれないが。青春の思い出に、 アイドルがいた。

ミケランジェロはルネッサンス期に人の意識を変えた。Leslieも同じ。レスリーは先の世紀末最後の20年間、多くの芸術家とともに、 文化大革命後の中国の若者の審美意識を変えた。また父母の世代は、世界には"10キロの米"以外にも"15元の海賊版"があることを知らされた。 彼らには衝撃であっただろう。

昨年、SARSと名づけられた季節、《黙黙向上遊》を聞きながら、天空に思索をめぐらせていると、突如痛みに襲われた。まだ楽しみという ものは、残っているのだろうか? 清冽、憂鬱、迷い、悲哀、絶世、孤独。張國榮という存在が消えてしまい、私の世界にはもうアイドルはいないというのに。

レスリーに乾杯。過ぎ去った青春の歳月に、乾杯。

2005/11/26up