従憂鬱的反叛到性格的演繹 談張國榮的銀幕影像

憂鬱な反抗から性格の演じ分けまで レスリーの演技を語る

蘆偉力:ニューヨーク市立大学演劇博士。香港パブティスト大学傳理学院映画テレビ科で教鞭を取る。舞台演出を手がけるほか、シナリオや映画論の著作多数


張國榮 華麗與憂鬱的飛鳥之歌

1989年芸能界引退を表明した時、張國榮はすでに香港歌壇の大スターだった。また《チャイニーズ・ゴーストストーリー》《ルージュ》等人気を博した作品に主演しており、銀幕でも様々な役を演じてきた。91年の復帰後に映画に専念した彼は、更に輝きを増した。《チャイニーズ・ゴーストストーリー》でのはにかみ、純粋さ。《ルージュ》での耽溺と軟弱さ。《欲望の翼》での斜に構えた気取り。瀟洒。《さらば、わが愛 覇王別姫》での繊細と華麗。レスリーは生まれ持った豊かな才能と役の分析でもって、彼自身もそして重要な役割を果たした役も、単なるスター映画ではなく、創造的な魅力と価値あふれるものに創り上げた。ともすると90年代を通じての目も眩む彼の表現に、レスリーの芸能生活には不遇な時期がなかったかのように思える。実際には、彼は特に天賦の才に恵まれていたわけではない。人が言うように美しい資質を生まれ持ったのではない。幼さを残す頃から始めて、最後には香港の最も代表的な、また最もスターの風格を感じさせる俳優、歌手、そして社会の中で文化的意義のある"シンボル"にまでなった。この陰には"全てを注ぐ"努力があっただろう。レスリーの"劇"的な最期から4周年を迎える今、本誌は香港・台湾の著名な電影文化の評論家にお願いし、様々な角度から彼の特徴と芸術を語っていただく。そしてこの憂いを含みながら華麗な、飛ぶ鳥の誕生から逝去までの美しい伝説を描く。
(編者)


出發點:作為欲望對象的偶像 ― 始まり:欲望の対象としてのアイドル

張國榮はアイドルである。このことには全く疑問の余地はないだろう。しかし、彼はどういったタイプのアイドルか?それぞれの心の中に、解釈があるだろう。アイドルには指導者的な者がいるが、彼はこのタイプではない。もう一つのタイプは、ある集団の代表。自分たちの代表として、外界に話をするタイプだ。世界にはある種の人たちがいて、特徴的な性格であることを語る。私は一部の人の間では、レスリーはこのタイプだと思う。レスリーは物事に勇敢に立ち向かい、その意味で代表と言える。私は彼の性嗜好だけを言うのではなく、彼は人生や愛情に対しても勇敢だった。

レスリーの人生において重要な決断とは、社会に性嗜好を公開したことだっただろう。この行動で傷ついた人もいただろうが、社会はレスリーを直視せざるをえず、「愛」の多様性を突きつけられることになった。言い換えれば、レスリーを通じて、私たちは愛する方法も選べることを学んだ。彼から社会の抑圧に対する勇気を得て、レスリーを誇りに思った人もいるだろう。

もう一つのタイプのアイドルは、人の欲望の対象となるものだ。レスリーは初期にはこのタイプだっただろう。かつて彼は、観客の欲望の対象だった。特に20代の頃は。彼は上から見下ろす、グレゴリー・ペックのようなタイプではない。反対に身近に寄っていける人だ。抑圧された環境において、欲望の対象となる。これは全く自然な事で、流行文化の一要素でもある。銀幕上の女性は、男性観客の欲望の投影であり、銀幕上の男性は、女性観客の欲望の投影であり、これは皆が認めることである。しかしレスリーは他の欲望の対象とは少し違った。これは彼の演技の本質と関係するだろう。

憂鬱的影像本質 ― 憂鬱な演技の本質

《烈火青春》をご覧になっただろうか?この作品でレスリーが青い色調の部屋で、ものうげに膝を抱えて座り、亡くなった母のラジオの録音を聴いているシーンがある。この憂鬱なレスリー、憂鬱を抱えた人物像は、《欲望の翼》まで脈々と受け継がれ、後期の作品にも見られる。憂鬱な姿と、人の欲望の対象になることは全く相反する。私たちは彼は傷つき易いと感じ、また彼を傷つけることに耐えられないからだ。

そしてこのことが彼のファンに、微妙な作用をもたらしている。女性のファンを彼への欲望という岸から、憂鬱を通過して、彼を見つめ愛するという岸に導く、橋のような。彼には保護されるイメージが強くなり、私たちの心には愛が芽生える。欲望を加えた愛が。そして彼と長く続く関係を結ぶ。男女も欲望がなければ、夫婦にはなれない。また欲望だけでは、愛は長くは続かない。欲望からレスリーに近づいた私たちは、その憂鬱な雰囲気から彼を傷つける事に耐えられず、その為に愛が生じ、又彼をより深く知る事になる。

衝破禁忌:引領「性別文化」 ― 禁忌を破る:「性別文化」をリードする

愛する」には多くの方法があり、様々な段階がある。レスリーは華人社会の「性別文化」に大きな貢献をした。私はこの点に注目し、《ブエノスアイレス》《君さえいれば 金枝玉葉》《覇王別姫》および喜劇《家有囍事》で彼の演技を分析した。

作品間には発展の過程があるので、《家有囍事》から始める。一見テレサ・モウが「男っぽく」レスリーは「女っぽい」。しかし電流が交わった夜に、意地を張り合って犬猿の仲だった二人は、強い男と優しい女になる。《家有囍事》は90年代初期の作品で、性別に関しても食い違いや誤りという扱いである。

第二段階は、《金枝玉葉》が代表作だ。レスリーは音楽プロデューサーで、アニタ・ユンが少年に扮した女の子を演じ、プロデューサーと愛情が芽生える。ピアノ室のシーンをご記憶だろう。レスリーが「どうにでもなれ!」と一切を投げ捨てた態度で、想う人を抱きしめようと、ピアノの横でアニタ・ユンを追いかける。このシーンは香港映画史上に残る名シーンだ。最終的にレスリーは、アニタ・ユンが実際には女性だったと知るが、それは「どうにでもなれ」と愛の為に捨て身の行動をした後である。行動したのであり、ここが《家有囍事》とは異なる。前者はただ誤りであった。しかし後者は意志をもち決断している。愛について彼はこう言った。「人を愛する時に、精一杯考えぬいた後で、性別にはこだわらなくなった」と。人を愛する時に、その人の出身は気にかけないのに、何故性別にはこだわるのか?同性愛の表現という意味では、《金枝玉葉》でレスリーは一段高みに上った、一つ山を越えたと言える。《金枝玉葉U》にも別の山がある。アニタ・ユンの役とアニタ・ムイの役は共に女性だが、二人に愛情が芽生える。《金枝玉葉U》が性別文化上で画期的な点は、ユンとムイの関係が、もはや混乱したものでない事だが、この部分はレスリーには関係がないので、ここでは述べない。

タブーを突き崩すことは、レスリーの作品には良く見られ、また彼の考えにもよるものだろう。だから私は、これがレスリーの演技の本質と信じる。もしエリック・ツァンが演じたなら、彼には禁忌を侵すことは不要だ。彼は抑圧された人物ではなく、もともとタブーがない。ほぼ同じ時期の《大三元》でも、レスリーの役は愛する上でタブーを侵さなければならなかった。彼は神父で、自らに正直にホステスを愛せるかが問題だった。作品中では解決され、私たちにも納得いくものだった。もちろん美男に美女を合わせるのは、流行文化の常である。また他にタブーを扱うのが《白髪魔女傳》で、レスリーは魔女を愛するか否かの決心を迫られる。レスリーは激情をもって一途に愛する。この作品の卓一航は幼い頃から武術の名手で、このような美しい人物が禁忌に挑む事で感動させる。

続いて取り上げるのは、かなり複雑な《覇王別姫》。この作品中では、タブーは明確である−同性愛だ。程蝶衣は兄弟子を愛し、二人は芸術の中では完璧な一対になれる。しかし実生活においては、それは出来ない。数十年に渡り、思念は断ち難たく、恩義は忘れ難い。しかしながら文化大革命に到って、兄弟子は彼を裏切り、彼はひどく傷つけられた。《覇王別姫》を見るとレスリー、コン・リー、張豊毅の三角関係が見えてくる。レスリーとコン・リーの関係は、単に恋敵であるばかりでなく、協力者でもある。作品ではコン・リーによって、レスリーと張豊毅の愛情では不可能であった「欲」の一面が完成される。《覇王別姫》は、一種の社会の抑圧を表していると考えられる。禁じられた愛情が明確に示される。またレスリーの役は生涯の望みを最後まで果たせず、最後に命を絶つ。これは芸術と恋に囚われた男の、最も美しい結合の瞬間である。

90年代初め、レスリー自身も同様の抑圧を受けていた。彼は映画での演技を通じて、彼が望むことを表現したといえるだろう。初期の《家有囍事》の"食い違い"から後の《覇王別姫》の抑圧へ。《金枝玉葉》では愛のためには捨て身であったのが、《ブエノスアイレス》でははっきりと、直接的に同性間の愛の深さと広さを表現している。これがレスリーの演技がたどった道の一つである。

人生における「愛」に勇敢に向かえるか?魅力ある人に出会ったとして、その人物は教師かもしれず、学生かもしれない。異教徒かもしれないし、仇かもしれない。そしてあなたと同性かもしれない。こういった状況に、勇気を持って臨めるか?全世界にその気持ちを宣言できるか?多くのアイドルが、自分の妻子や、ボーイフレンド、ガールフレンドについては隠す。しかしレスリーは、彼は恐れなかった。このことも彼の魅力を高めだろう。彼は自分に正直なスターであり、自分の感情、生命、そして芸術を直視した。自分の生命を材料にして、自分の人生経験を芸術創作に生かした。これは彼が自分の仕事を愛し、仕事を尊重している証だろう。

従本色表演到性格演繹 ― 素質での演技から、性格を演じるまで

以上、レスリーの演技の本質は「愛」だと述べてきた。続いては、彼の表現の多様さについて述べたい。俳優には三種類いる。「類型俳優」は似たような役ばかり演じる。「素質俳優」は、本人の素質、性格で役になりきる。そして「性格俳優」は様々な役の性格を演じ分ける。レスリーのキャリアを見ると、デビュー当時は白馬の王子扱いだった。しかし本人はそれを好まなかったのが覗える。彼はだんだんに、反抗的な、憂いを含んだ彼らしさを発揮している。そして次の10年は、主に彼の性質に近い役を演じていた。

彼の素質に近い役で、非常に上手いのは《チャイニーズ・ゴースト・ストーリー》だ。寧采臣は善良な、これという長所のない役。あの世界で最も能力を欠き、もっとも保護を必要とする。それをレスリーは真に迫って、まるで彼にあつらえた役のように演じている。彼自身の特徴も見て取れる。茶目っけがあって活発だが、保護を必要とするという。ここで面白いのは、守ってあげたい人というのは、林黛玉(訳注:紅楼夢のヒロイン)タイプでなく弱々しく繊細でなくても、善良な普通人であれば良いことだ。この作品でレスリーは、特殊な例の典型を演じた。

《チャイニーズ・ゴースト・ストーリー》タイプのキャラクターは、他の作品にも見られる。例えば《男たちの挽歌》《狼たちの絆》。登場人物の中で、彼は「兄貴」ではないが、なにかしら成し遂げたいと思っている。この段階では彼は英雄ではなく、私たちの保護が必要だ。

またもう一つ素質に近いのは、彼が若い時によく演じた役で、あの頃の彼には荒削りの玉のように、磨かれない初々しさがあった。例えば《檸檬可楽》等だ。この時期の作品は必ずしも良く撮れているとはいえないが、この頃見られたレスリーらしさのいくつかは、後には見られない。

後期の作品は《色情男女》から話そう。レスリーは脚本に書かれた役の性格を目指して演じるようになり、「性格俳優」となった。《色情男女》での落ちぶれた監督は、《流星語》と同じく、二枚目のイメージではない。しかし彼はなりきっており、聞くところによると《流星語》の報酬は受け取らなかったそうだ。友達を助ける為だとしても、彼の映画への気持ちの表れだろう。この類の作品から、彼の特徴が分かる−"困難な時期"を乗り越える、という。人生の苦難は社会によってもたらされる。例えば失業や株の暴落によって。自分が原因のこともある。失恋後、奮起できない。試験や結婚に失敗したあと再起できないなど。この2作品では、人生の低調期にどうやって谷底を抜け出すかを見られる。レスリーの役作りは非常に魅力的だ。それは彼の創る役が生命を持つようで、また独特の憂鬱さがあいまって、私たちを納得させるからだろう。

この時期の演技には、まだまだ研究すべき点が残されている。しかし俳優としてのレスリーの能力は疑いようがない。例えば《カルマ》では、非常に複雑な演技を要求されたが、その一つは表情の変化だった。彼はワンシーンの中で完成させ、その痕跡も残していない。彼はすでに非常に熟達した俳優だった。

結語:永遠彰顕有価値的生命 ― 終わりに:永遠に顕彰する価値のある人物

香港で称えられる人物は、我々の今日そして未来の道を導いてくれる。レスリーもそういった人物の一人だ。彼は、自らにより高きを要求した人だった。レスリーを追悼するなら、私たちが彼の為に何が出来るかを考え、それを実践できるだろう。映画芸術の創作においては、彼は尊敬すべきアーティストだ。だからまず彼の作品への理解をもう一歩進めること。そして理解を深めながら、「張國榮」を活かしていくことが必要である。しかし更に重要なのは、レスリーの人生の本質に迫る事だろう。「哥哥」張國榮の一面については、現在も、一部の人にとっては禁忌である。以心伝心、自らの理解した所に基づいて、彼の意義ある人生を語り、より多くの人にこの傑出した生命の輝きを伝えるべきだろう。そしてこういった行動を通じて、私たちも彼と共に歩めると考える。


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2007/7/1 香港返還10周年の日に