電影、 死亡、 鳥 (要約) |
盧非易:米国カリフォルニア州大学映画・テレビ学院芸術修士。現在は助教授をつとめる。著作に《日光男孩》《飲食男》 《有限(線)電視、無限(線)文化》《台湾電影:政治、経済、美学1949-1994》等がある。 |
你會自殺嗎? 不會。 為什麼? 因為我太聡明 |
自殺をする事がありえますか? ありえない。 それは何故? 僕は賢すぎるから。 |
小説というのは過去形で語られる。その方がすでに発生した事という現実感が出せる。反対に舞台は現在形だ。観客は舞台で起こっている事件の目撃者だ。では映画は?映画の本質は過去であり、消え去ったものであり、見返すことの出来る記憶である。映画の登場人物とストーリーは、永遠に過去に止まり、前には進めない。人は映画館で過去を見る。そしてその物語と人々を脳裏に留め、映画館を出て行く。かつてある人が言ったように、事象は映画に変換される過程で死亡する。あるいはすでに過去のものとなっている。死は必要不可欠だ。死は終りなく、不安定で不確定な"現在"を、明晰で安定し確かな、表現しやすい方法の過去に変える。人生における出来事(例えば愛情)は、夜店で売っている色の変わるランプの様で、その色は何色でもない。なぜなら色を指摘した時にはすでに、色が変化しているからだ。唯一死のみが変化を止め、明確な意義を与えられる。死は永遠となり、死が存在を作り出す。つまり死によってこそ、人は確かに存在出来るのだ。映画は人をフィルムに焼き付け、いつでも、永遠に変わらぬ美貌を見せてくれる。観客がいつ思い出し、いつ見ても、映画は変わらぬ姿である。 映画の登場人物は、スクリーンから出てくることはない。では演じる俳優はどうか?彼らは撮影が終ると、現実の生活に戻る。本人の死の日まで。そして役や自分が、世間から忘れられるのを待つ。忘れられなければ、俳優は自分を隠そうとする。しかしながら中国式あるいは香港式といえる、華麗な悲劇的結末の例がある。例えば阮玲玉、林黛、楽蒂…「自殺をする事がありえますか?」こう問うた時、これはこの伝説的なアイドルの頭をよぎったことのある問題だと感じた。「ありえない」彼は、すぐに笑って答えた。 ピーター・パンは大人になる事を拒否し、成長からも拒否された。彼は映画の登場人物に似ている。幕が閉じてライトがついた時、人々が映画館を出て行くのをかまわず見送り、自分は暗いスクリーンを飛び回っているという。映画の登場人物が成長することは、許されない。彼らは永遠にネバーランドに囚われている。観客が登場人物を暗闇に放って置くのは、自分のピーター・パンとしていつも付いていて欲しいからかもしれない。 「脚のない鳥がいるそうだ。飛び続けて疲れたら、風に乗って眠る。地に降りるのは、死ぬ時だけだ。」心の中で、ピーター・パンが飛び続けている人もいる。ピーターはしょっちゅう現れて、叫んだり、引き止めたりして、応えてくれるのを待っている。世をすねた青年は、ついに香港を離れ、レベッカ・パンを離れ、南洋へ生母を探しに行った。緑が影なす荘園で、レースのカーテンの向こうでは、ピーターが入っていく窓は、すでに閉ざされていた。 「すごく怖いんだ」後で、彼はこう言ったかもしれない。「何が?」私は聞く。 「何故って、僕は賢すぎるから」と彼は言った。流行文化に必要な俗っぽさ、美しさを、彼は全て兼ね備え、それを楽しんでいた。しかしその背後にある一種の冷静さ、聡明さと純粋さのために、彼は世俗を超越した。彼のピーター・パンが、内側から教えたのだろう。 ジョン・ローンが同席した晩餐の席だったか?彼は身体にぴったりした完璧な礼服姿で、沈思黙考して一言も発しなかった。「服が苦しいの?」と聞くと「Not at all!」とのこと。また別の機会に、奚淞氏のアトリエで絵を見た。彼はゆったりしたズボンを穿いて、楽しそうにあちこち見ていた。人を引っ張っては、色々な人の肩にもたれかかっていた。「楽しんでいるでしょう」と言うと「いや、すごく緊張しているよ」と笑った。 世故に長け成熟し、一流であるのに、シンプルで、純粋。人の身体には、全てピーター・パンが住んでいて、疑いを持った眼差しで、私たちを見ているのではないだろうか? |
我好害怕 怕什麼呢? 我覚得、身體裡住另外一個人。 |
すごく怖いんだ。 何が怖いの? 身体の中に、別の誰かが住んでいる気がする。 |